夢を見た。
幼いころに慣れ親しんだ光景や家屋が、ブルドーザーでバリバリと破壊され、新しい別ものになっていくのを、幼いわたしは残念そうに眺めている。
小さな男の子が一緒だ。弟のようにも、息子のようにも見える。
たったそれだけの短い夢だったのだが、珍しく目が覚めたあともずっと覚えていた。
実際のところ、夢に出てきた光景は現在のものだったし、実家らしい家屋は今から30年以上も昔、建て替えのときに解体されたから、今ごろになって残念も何もない。
遠い過去と現在が違和感なく混在する不思議な状況を、何とはなしに思い返す。
「追憶」という言葉が持つ語感が好きだ。
やたらとこの言葉が頭に浮かぶので、意味を調べてみたら、”過ぎ去ったことに思いをはせること。過去をしのぶこと。”とあった。
昨夜あの夢を見たことと関係があるのだろうか。
追憶とは、何年くらい前の過去のことをいうのだろう。
かつて古民家に事務所を置いていたのは、わたしにとって比較的新しい過去で、追憶というほど熟成はしていない。
けれど、当時出会った人たちと築いた新しい人間関係は、コロナ禍による空白を経て、気心知れた昔馴染みの関係に形を変えていた。
いつの間にか発酵が進んで、まろやかになった味噌のようだ。
ついこの間、仕込んだばかりだというのに。
ふと我に返る。
しまった、またよけいな時間を使ってしまった。
頭は、放っておくとあちこちの引き出しを勝手に開けていくからいけない。
それでも・・・、とまた自分から思考の渦に足を踏み入れていく。
人は過去を量産しながら生きているのだ。
新しい人間関係が、昔馴染みのそれに変るまでのほんのわずかな時間を思うと、まるで激流の中に身を置いているような錯覚を覚える。
時間がゴウゴウと音を立てて流れていく。ここのところ、その激しさに恐れをなしている自分がいる。
恐れの理由は、失われていく若さへの執着か、成し遂げていないことへの悲しみか、それとも、激流に飲まれまいと必死にひた走ることの苦しさなのか。
知らずと、肩で息をするような毎日を送っていたのかもしれない。
心の栄養を補給しに出かけよう、そう思った。
音楽、美術、文化、自然。
視点を変えて手を伸ばせば、いつでも触れられるものがそこにある。
追憶より大切なものが、そこに。
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