「何を食べるか」より「どこで食べるか」
この外観を見て、期待がふくらまないなんてことあります?
と、つい問いかけたくなる、京都・伏見の懐石カフェ蛙吉さん。
わたしたち(違う方ごめんなさい)は、「何を食べるか」より、「どこで食べるか」が大事。
食より住へ手が伸びる嗜好性ゆえともいえましょうし、インテリアをなりわいにする者の哀しいサガともいえましょうが、そんなサガ友(インテリアコーディネーター仲間)が予約を入れておいてくれた蛙吉さんへうかがったのは3月初旬、2度目の緊急事態宣言が明けたころのことでした。
冬の寒さと春の気配が入り交ざる早春の空気を、ふわりと感じとっていただければ。
ぶった斬られる先入観
”古くベタな空間”が、”古き良き時代を彷彿させる瀟洒な空間”へと、見事に変貌を遂げるBefore & Afterはお好きですか?
わたしはめちゃめちゃ大好きです。静かに朽ちていこうとしている家屋へ、新しい命が吹き込まれる瞬間ほど感動的なものはありません。
その家屋の背景、関わる人びと、デザインのストーリー、工事の過程や思わぬハプニングなど、知れば知るほど感動は深まり、余韻が後を引き、人の手で作られるものは本当に素晴らしい、ああ人はなんて素晴らしいんだろう、ビバ人!・・・人への友愛を最終形として、果てしなくひたり続けることができます。
そんな調子ですから、古い木造家屋を改装した〇〇と聞けば、このような雰囲気で空間演出をしているのではないかしら、と聞かれもしないのに予想を立て、その予想が大きく外れていなかったときの”しめしめ感”に味を占め、その”しめしめ感”をふたたび味わいたいがゆえにまた聞かれもしないのに予想を立てる、といった無限ループについはまっていきます。
ちっぽけな成功体験も塵のように積もっていけば、いつしかそれは「先入観」という塊になり、ゼロベース思考を押しのけてしまうよう。わたしの見方にはヘンなバイアスがかかっています、なんてもちろんふだん自覚などしていませんから、何かの拍子に気づくことでもければ、そのまま一生を終えることもありましょう。
ところがこの日、蛙吉さんの店内へ足を踏み入れた瞬間に気づいたのでした。
立ち上がりいきなりカウンターパンチを食らうってこういう感覚なのか、とボクシング経験などないくせに書いてみたのは、意表を突かれすぎて先入観もなにもあったものではない感じになってしまっていたからです。
ワシが俺がと視線の先を捉える者たちを前に、予想を立てた空間の確認作業という体に深く染み込んだ習癖はあえなく封印され、全面降伏以外に術はありません。
写真に残っていないところの造作や仕上げを、ほぼ思い出すことができないでいます。
思い出せない?いえ、見ていなかったのかもしれない・・・書きながらさかのぼる記憶もはかなく頼りなし。
振り切り方が潔い
丁寧に作られた懐石はストーリー性と相まってしみじみと美味しく、コロナ禍の中ひさしぶりに人と会うことのできたうれしさと相まって心に染みわたりました。
供されるお料理の周辺にも彼らはひそんでいて、わくわくと期待しながらワシや俺を見つけて喜ぶわたしたちは、次は?次は?とマジックに歓声を上げる幼い子さながらだったのではないでしょうか。
潔く振り切ってもらうと、こちらも潔く楽しめるものなのだな、と思いましたよね。
伏線は看板にあり
変わった名前だなと眺めていた看板は実は伏線で、店内へ入ればたちまち回収できる仕組み。
シンプルで分かりやすいし、とても優しさのある演出でほっこりとした気持ちになれる。でもまさか京都で(←先入観)、この外観で(←先入観)、ここまで振り切る(←先入観)、ああ、もうこれは「記憶に残るお店」堂々のランクイン!へまんまと誘導されたな、と清々しい気持ちで満たされたのでした。
それにしてもおびただしい数のカエルたち。
聞くとオーナーさんがお好きなのだそうで、その半端ない好きっぷりに好感度が爆上がりしたことも申し添えておこうと思います。
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